ABOUT
ART FOR THOUGHTでは11月12日より30日まで、小野海「FELT SENSE」展を開催します。
(※初日12日(火)17:30-19:00にてレセプションを開催します。冒頭30分はオープニングトークとなります。)
滲み合う色彩とホッチキスで繋ぎ合わされたフェルトによる本作は、精神と身体の曖昧さや拡張性を感じさせ、言語化の困難な身体感覚(FELT SENSE)を立ち上げる新作シリーズとなっています。
私たちは、人間らしさをどのように知覚し編み直すことができるのでしょうか。ぜひご高覧ください。
ARTIST'S STATEMENT
色も形も分からない、暖かいのか冷たいのかも分からないものが自分の中に浮かんでいて、それはとても美しくあるようで、醜い気配も孕んでる。
とにかく、まだ分かっていないけど、何かがそこにある。
そういった目では見えない曖昧なモノを確かめていく行為の過程で、自分の内側と外側に跨った存在として今回の作品が生まれました。
CURATOR'S REVIEW
"怪物"はふたたび現れる。
小野海はこれまで、立体的に知覚の存在を立ち上げてきた。「Prism」シリーズでは不可視や知覚を彫刻的に構築し、かつそこに虹色の糸を張り巡らしていくことで、その知覚の多彩さや構築の無限性(鑑賞していると、私たちはモアレ現象のような作品の膨張を錯覚する)を、あるいはほつれや儚さを表現し、それらを総体的な"知覚”として現出してきた。
本展の「FELT SENSE」シリーズで小野は、「Prism」との共通点として“知覚を立ち上げる”ことを目指しながら、そこに複数性と拡張性の共在、そして血肉のうごめく身体性に迫ることを試みた。複数の色が滲んだフェルトと、それをぶっきらぼうに繋ぎ止めたホッチキス。ここに境界の曖昧さと拡張性が共在しており、現代に生きる私たちが複数の曖昧な分人(私たちはシーンに合わせて複数のキャラクターを使い分けながら、そこに疲弊や混同を感じている)を内包しながらも、IoB(Internet of Bodies)に象徴される身体拡張を試みていることを想起させる。
事実、「FELT SENSE」とは心理学の分野で”言語化の困難な身体感覚”を指しており、不可視の知覚を立ち上げてきた小野が、その関心の対象を知覚主体としての身体へとフォーカスしていることもうかがえる。
またホッチキスでフェルトが用いられている点は、メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』に登場する"怪物”を連想させ、人の技術によって歪に形をつなぎ留められていること、そしてその内側に血肉が脈打っていることを想像させる(事実、本作は平面作品でありながら波打っており、フェルトの裏にある身体を想起させている)。
批評家・山本浩貴は著書『ポスト人新世の芸術』のなかで「未来にむけて新しい形の「野生」を彫琢していくことが私たちに求められているだろう。[p.81]」とし、世界の再魔術化の必要性を唱えている。私たちヒューマン・ビーイングにとって、器官としての知覚もさることながら、曖昧で不可視な知覚(FELT SENSE)に意識を向けることは、よりよく生きるために人間らしさを霧中で手繰り寄せる行為(野生)とも言えるのだろう。
先に挙げた『フランケンシュタイン』の中で、"怪物”はついに名前を授けられることなく人間らしさを勝ち得ることができなかった。果たして小野は、「FELT SENSE」という身体感覚を人間の知覚としてどのように立ち上げようとしているのか、あるいは、曖昧で言語化の困難な“怪物”としてそのアウラは人間らしさを勝ち得ないのか──。小説では、”怪物”の生死が明示されないまま、読者は最後のページを迎える。
キュレーション・田尾圭一郎